森を開拓していると、cultureという言葉の意味がわかる気がする。

昨日も、森のフィールド整備をしていた。
数年間、片隅に置きっぱなしにしていたアカマツの丸太。持ち上げてみると、ずいぶん腐食が進んでいる。木の形はまだ残っているけれど、ところどころ土に還りかけていた。
土の中から出てきた大きな石は、転がして花壇の縁にする。
刈り取った草は、落ち葉と一緒に一か所に集めておく。
どれも、特別なことではない。
けれど、そんな作業をしながら、ふと思った。
これが文化というものの始まりなのかもしれない。
英語のcultureという言葉は、もともとラテン語のculturaに由来し、土地を耕すことや農業を意味していたという。
そこから、植物を育てること、さらには人の精神を育むことへと意味が広がっていったらしい。
畑を耕すことと文化的な生活。
普段はあまり結びつけて考えないけれど、森の中で土をいじっていると、そのつながりが少しずつ実感として見えてくる。
自然に手を加えると、景色が変わる。

森は、放っておいても森として存在している。
木が育ち、葉が落ち、草が生え、虫や微生物が働き、やがて朽ちたものが土に還っていく。
そこには、人間が何かをしなくても続いていく営みがある。
一方で、人がそこに手を加えると、少しずつ違う風景が生まれてくる。
土から掘り出した石を並べれば、そこに花壇ができる。
丸太を置けば、腰を下ろして休める場所になる。
草や落ち葉を集めれば、やがて土を育てる材料になる。
自然の中にあったものが、別の役割を持ち始める。
何か新しいものを外から持ち込まなくてもいい。すでにそこにあるものを見つけ、動かし、組み合わせ、使い方を考える。
それだけで、景色も、そこでの過ごし方も変わっていく。
つくることは、自然を支配することではない。

開拓という言葉には、木を伐り、土地を切り開き、人が使いやすいように整えていくイメージがある。
僕も実際に、そんな作業をしている。
でも、何年も森と付き合っていると、すべてを人間の思いどおりにする必要はないと思うようになった。
朽ちた木は、邪魔なものではなく、土へ還っていく途中にある。
落ち葉は、掃除して捨てるものではなく、次の土をつくる材料になる。
地面から出てきた石だって、わざわざ処分しなくても、置き方を変えれば景色の一部になる。
大切なのは、自然をきれいに片づけることではないのかもしれない。
そこにあるものの性質を知り、どうすれば生かせるかを考えること。
人の手を加えながらも、自然の営みを途切れさせないこと。
そんな関わり方ができたら、開拓は単なる土地の整備ではなくなってくる。
文化的な暮らしは、手を動かすところから。

文化的な生活というと、音楽や芸術、美術館や読書などを思い浮かべる人もいるだろう。
もちろん、それも文化だと思う。
でも、土を掘り、石を運び、丸太を動かしている時間にも、文化の原点のようなものがある気がする。
自分が暮らす場所に手をかける。
季節の変化を知る。
自然の働きを観察する。
そこにあるものを生かしながら、自分が心地よいと思える場所をつくっていく。
そして、そこで何をして過ごすかを考える。
本を読んでもいい。お茶を飲んでもいい。誰かと話してもいい。何もせず、ただ風を感じていてもいい。
そういう時間や場所を、自分の手で少しずつつくっていく。
それは、出来上がった何かを買うこととは、また違う豊かさだと思う。
完成した瞬間だけが価値なのではない。
手を動かし、考え、失敗し、工夫しながら、場所との関係が深まっていく。その過程そのものが暮らしをつくっている。
森を耕しながら、自分も耕されている。

昨日のフィールド整備も、どこまで進んだのかと聞かれれば大したことはない。
丸太を動かし、石を並べ、草を集めただけだ。
けれど、以前はただの障害物に見えていたものが今は使い道のあるものに見えてくる。
何かを捨てる前に、もう一度考えてみる。
すぐに完成させようとせず、自然に任せながら待ってみる。
手を動かしているうちに、次にやりたいことが浮かんでくる。
どうやら、耕されているのは土だけではないらしい。
森に手を入れているつもりが、自分のものの見方や時間の使い方まで少しずつ変わっていく。
cultureという言葉の語源を知ったときには、なるほど!と思った。
でも今は、知識として理解するよりも、土を掘り、丸太を動かし、落ち葉を集めているときのほうがその意味がよくわかる気がする。
文化とは、どこかに完成品として置いてあるものではなく、暮らす場所に手をかけることから生まれてくるものなのかもしれない。
さて、今日はどこを耕そうか。
森も、土も、そして自分自身も。
